帰国して2年が過ぎた。
ふとした時に、何度もニューヨークにいた頃のことを思い出していたが、今となってはその執着もだいぶ薄れてきた。
忙しさのおかげだ。
さて、初めてニューヨークへ降り立ったのは、36歳にして語学留学を決意し渡米した、2019年3月のこと。フライトはもちろん片道切符だ。デルタ航空での乗り継ぎ便を選択していたため、アメリカへの入国審査は経由地点のミネアポリス空港で、だった。
人生で一番緊張したのはいつかと聞かれたら、間違いなくビザの面接時と答えるが、その次はおそらく、この入国審査だろう。パスポートとI-20をしっかりと手に持って、呼ばれるのを待った。
「ニューヨークへは初めて?」
無事に入国審査を通過して、最終地点への機内でホッと胸を撫で下ろしていた私に、隣に座っていたイスラエル出身の奥さまが声を掛けてくれた。母親が子どもに話しかけるような、柔らかい、優しい口調。海外旅行経験が決して多くはない縮こまった36歳の日本人が、26歳、いや、もしかしたら16歳に見えたのかもしれない。私たちは少しだけ、“会話”を楽しんだ。
数時間ほどのフライトを経てジョン・F・ケネディ空港に降り立った私は、胸を躍らせながらゲートを通過した。疲れよりも緊張が勝っていたのか、20時間近いフライトが何事もなかったかのように思えた。
空港から寮までは、日本人ドライバーを手配していた。彼=Tさんはゲートの先で「西村さま」と書いたホワイトボードを手にし、私が出てくるのを待っていてくれた。車に乗り込み、マンハッタンへ向かった。
「お腹すいたでしょう。もう時間も遅いから、これをどうぞ。」
心細そうな海外留学初心者を数多く見てきたのだろう。土地勘もなければ店も知らない。夕食をどうしようかと不安でいた私に、水とサンドイッチを差し出してくださった。
車から外を見ていると程なくして、遠くから眩い光たちがだんだんと、はっきりと現れてきた。いろんな理由があって渡米してきたわけだが、そんなもん、すべて吹っ飛んでしまうくらいには、激しく美しかった。
繁華街の中心部付近であろう寮の前に到着。ちょうど日本人が出入りしていて少し安心した。外は雪が溶けて水浸し、とても寒かった。
しばらく待って管理人と落ち合い、Tさんにお礼とお別れを告げた。
管理人から一通り説明を聞いたあと、鍵をもらって自分の部屋へと入り、愕然とした。6ヶ月間の留学期間中、最初の3ヶ月を過ごす部屋。想像の何倍も狭かった。
寮とは言っても普通のアパート。タイムズスクエアから徒歩10分くらいに位置する、便利すぎる場所ではあった。家賃はひと月1,500ドル。広さは3畳ほどしかない。ランドリールームやシャワー・トイレは共同。ミニキッチンが付いていたのは有り難かったが、パイプ製の、いかにも安そうなロフトベッドのせいで薄暗く、ソファはクッションが死んでいた。
32歳のとき、初めて東京に住むことになりビビりながら借りた、東日暮里の10畳ワンルーム88,000円とは、レベルが違いすぎた。物価の高いエリアに住むということは、こういうことなのだ。
ドッと疲れが襲ってきたが、トイレへ行くにもトイレットペーパーが無い。各々で準備しなければならないようだ。アパートから少し歩いた場所にセブンイレブンを見つけ、トイレットペーパーと少しの備品を調達した。さっさとシャワーを浴びて早めに寝ようと共同のシャワールームへ行くも、今度はシャワーへの切り替え方が分からない。突起物を上に引っ張るやり方は知っていたが、そうではないらしい。絶望を感じながら10分ほど調べてようやく、蛇口の先を下に引っ張ればいいということが分かったときは、へたり込む寸前だった。
日本から持ってきた、使い慣れた僅かな石鹸でリフレッシュし、Instagramのストーリーに“記録”をアップ。疲労困憊の身体を、硬くて不安定なベッドに横たえた。
翌朝目を覚ますと、部屋の中はまだ薄暗かった。ここは、陽の光がまったく入ってこない場所のようだった。ここで、3ヶ月間暮らすのだ。
また昨日の絶望感に襲われそうになったが、気持ちを切り替えて身支度を始めた。外へ出ると、気持ちの良い太陽の光を感じると同時に、忙しない街の音が耳をついた。
一発目の写真はここで、と決めていた、タイムズ・スクエアへ。
人の多さとビルの高さ、目まぐるしい広告の数に圧倒され、少しだけ立ちすくみ、シャッターを切った。そしてこれからの生活を想像し、再び胸を躍らせた(To be continued)。